昭和45年05月06日  朝の御理解



 御神訓 一、「まめなとも信心の油断をすな。」

 元気だからと言うて、信心をおろそかにしてはならぬぞ、と。平穏無事だからと言うて、信心を忘れてはならんぞ、ということですよね。ところが人間のまあ、弱点とでも申しましょうかね、ほんとに神信心ということが、おかげを頂くということ。まあいうなら、困った時にお願いをするのが、神信心だといった様な考え方でありますと、誰しも油断になって来ると思うですね。
 そりゃ御恩を忘れん為に、月に一回はお参りするとかね、一週間に一辺はお参りさして貰わにゃ、という様な事になってきてそれが、段々まあ年に何回とかということにすら、なりかねない訳ですね。だから信心の油断ということをせんで済むような信心。いや信心の油断をするということは、惜しいことだと、馬鹿らしいことだ、とまあいうなら、そういう事になってくるんじゃないですかねえ。
 信心を頂いておかなければ、それこそまめな時にです、平穏無事な時に、一生懸命信心の稽古をしとかなければ馬鹿らしい、惜しいという様な頂き方の出来るところまで、一つ信心を分からせて貰わなければいけないということですね。昨日、壮年部会でございました。今度、松栄会の方達の入殿で、一日の信心共励の一つテーマになったところが、戸板にずうっと書いてありましたから、あの事について、又色々壮年部の方達の立場で、色々検討致しましてね。
 そして石井清さんにあれを読んで貰って、石井清さん流にそこであのまあ説明をしてみて下さいと言うて申しました。それで先日からもお話しました戸板に書いてあるのが、これだけのことですよね。「辛抱という時はまだ本当ではない。そこからなっていない自分に取り組む」と。だからここの所をもう殆どここに時間を取りましてね、この事でこの事をまあ一生懸命練りまして。
 後はずっとこう読んだだけで分かる様な感じだと。ここの所をしっかり練っておけばというので、ここの所を一辺読んで貰ったんです、ね。「私は夏がよい、冬がよいと言う人は、一年を半年にする人である。全てをおかげにする為に、冬もよし夏もまた有難いと受けて行く人の上に丸ごとのおかげが約束される。有難いと分かっているけれどもではならぬ。どんな事に出会うてもおかげにして行くという姿勢がいる。
 山を歩いている人が猪に出逢う。大変な事である。猪狩りの人にはそれこそ有難いと銃を構える。どうにもならぬ様な出来事でも、それを構えている人には、嬉しい事である。力を受ける、徳を受けるチャンスは、何時もざらにあるものではない」と。これは大要を筋書きにしたものを読ませて頂く時に、この一番初めの所の、辛抱せんならんという間はね、まあだほんとのものではないのだと。
 そこに自分がたったこのくらいの事を辛抱しなければならないというのであっては、まだ自分がなっていない自分だというところを、まあこりゃあらゆる角度から、ここに時間を相当にかけてから、まあお話を致しましたが。もうここんところだけで、確かにおかげを頂きましたですね。それで今私が読みましたところを読んで貰ってから、あのう清さんが説明するのに、初めにこんなことを言うんですよ。
 「あのう欲得で言うならば、これから先が大事だ」という意味のことを言うのですね。いわゆる、私が夏がよいとか、冬がよいとかと言う人は。もうここんところにね、私は清さんの哲学があると思うのですよ、ね。欲得というのは、ここでは、よい意味合いの欲得。みんながおかげを頂きたい、おかげを頂きたい、とそれこそ丸ごとのおかげを頂きたいとこう願っておるでしょうが、みんなが。
 だからそういう丸ごとのおかげを頂きたいなら、ね、これからが大事だとこういう訳なんです。だから欲得でいうならもう何時も、その欲得に繋がっている訳です。この頃光橋先生ところの移転を致します時に、親子で御用頂いて、もうほんとにさすがに清さんだなあと。言うことだけじゃあない、実際行うことももうそれこそ実意を持って行う。行き届いたこと。もう最後にへとへとになる位に。
 あのう一日がかりでおかげを頂いて、最後に久富先生を合楽まで送ってきた時なんかは、「もう疲れとるからいいですよ」と言うけれども「送らにゃ馬鹿らしか」と言って、送って来ておる。もうこりゃもう久富先生の為じゃなかです、清さん自身の為。ここまで、一生懸命、信心さして頂いておって、あと、たった最後の五分間をですねおろそかにしたら、私が馬鹿らしか、私が損するけん。
送らせて下さい、と言うて、送ったとこういう訳です。もうほんとにですね、聞いておって、その垢抜けしている具合いというね、おかげを頂くという意味合に於いて。だから、ここのところをそういう様な表現をするんですよね、「欲得でいうなら、ここんところをいや夏がよいの冬がよいのと言うちゃおられん。冬も有難い夏も有難い、いや有難く無かっても、それをですね有難く頂くと云う姿勢で行かなければ、馬鹿らしいんだ」ということ。正しくその通りですよね。
 ですから例えばここのところにこのありますように、何時もその山に登るのにですね、いわゆる銃を構えて銃を持って行っとるという事です。用意がちゃんとしてある。何時猪に合うかも知れんけれど、その猪に出逢うた時には、猪一匹山の土産に持って帰ろうという心構えが何時もある訳です。それを普通の者はね、いわゆる油断をしておりますから、さあ横から猪が飛び出して参りますと、もうびっくり仰天しなければならないとこういう。ここのところの構えをね、あのう出来ておるという事がね有難い。
 昨日はどういう事からでしょうかね、姑婆さんの話は、何時も共励に上るから、今日は舅爺さんの一つ人達の話を聞こうじゃないのと言うて、久富繁雄さん、原さんそれから松岡さん、みんないわゆる若い嫁さん達のおられる家庭の、嫁さんに対する嫁さんの見方、又は考え方といった様なものを、それぞれに発表して頂きましたんですけれども、ね。もうほんとに、私共もこれは私やら秋永先生は、まだお爺さんになっていないのですからね。私達が、その嫁からお父さんと言われる立場。
 孫達からお爺さんと言われる立場になった時にですね、ほんとに素晴らしいお爺さんにならして頂く為には、どういう様なあり方になったらいいだろうかということだったんですよ。やはりお婆さんのよりもお爺さん達の方が垢抜けしちゃるですね、ものの考え方が。素晴らしいです、みんな。そこで、秋永先生が言われるのに、とにかくどういう例えば嫁御が来てもです、ね。
 どげな嫁御が来ても、楽しゅう行こうじゃないかいう話が出ましたね。例えばどういう猪が飛び出してもですね、何時も構えておれれるというか、その構えておる張り切ったものではなくてですね、ここのところを自分が信心でいきゃあ、このどうにも出来ない様な嫁御がどんどん変わって行くというところに楽しみが出来るくらいなね、一つ信心をお互いさせて頂こうじゃないか。
 まだ爺さんでもない、まだ嫁から言われるお父さんでもない間にです、そこんところを信心をしっかり一つ鍛うておこうとこういう訳なんです、ね。その時問題になってから、慌てて考えるようなことじゃつまらんということ、ね。いわばどういう事が起こっても、例えば、それが難儀な問題であってもです、あればある程に、そこを楽しゅう受けて行けれる、折角なら、楽しゅうね、行こうじゃないかと。
 そりゃあね例えばまあ無味乾燥なおかげの頂き方というものもあるんですよ、ね。只いうなら辛抱しとると辛抱してお願いをしておる。是は一つも楽しゅうないね。辛抱せんで済むというかね、そこを楽しゅうおかげを受けて行くと言う事。例えばここに「体を作れ、何事も体が元なり」という様な御教えがありますね。ですから是は何をするにも矢張り健康というものが元ですから、体の丈夫を願わなきゃなりませんが。
 そんならおかげの元というのはですね、やはり心なのですよ。だからここん所を「心を作れ、どんなおかげを頂くというても、先ずおかげを頂く元は心にあるのだから」という様なね、頂き方をしたらどうだろうか、ね。そこで愈々心作りの楽しさというか、心作りに焦点を置いての信心と言う事になって参りますとです、信心が楽しゅうなって来る。いわゆる、まめなとも信心の油断をすなと仰るがね。
 まめな時ならまめな時程、信心が出来る事になってくる。そういうおかげを頂きたい。この事ば、おかげにして貰わんならんからで、一生懸命信心しておるとですね、この事が成就すると、人間は必ず、そこから油断が出来て参ります。だからそういう信心じゃあ、詰まらんじゃないかと。自分の信心で、分からん嫁御をどうでも分かる嫁御にせにゃというのは、余りにもきついじゃないかと。
 その分からん嫁御と共にです、楽しゅう行けれる信心がある。それは私はね何をするにも、どういうおかげを頂くにもです、先ず何と云うても心が元だという、私はいわゆる心作りの姿勢というものを作っておくならですね、ほんとに楽しいことになるだろうと思いますね。御理解三十七節に「生きておる間は修行中じゃ、丁度学者が年を取っても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞい」ね。
 もう限りなくいわゆる勉強の、勉強すればするほど、本を読めば読むほど、身に付いてくる学問が楽しゅうてたまらん。いくら年を取っても、やはり本を読む様なものであろうように、信心さして頂く者もです、力が付いて来る、もう力が付いて来ることが楽しい。いや心作りが出来る、心作りが出来ることが楽しいというところまで、ひとつ信心を進めておくというか、高めておきますとです
 信心が楽しゅうなって来るだけではなくて、まめなとも信心の油断をするような事は、先ずなかろう。いわゆるそれを清さん流に頂きますと、そげんじゃ、馬鹿らしか、ね。平穏無事だからというて、信心をおろそかにする様なことは、馬鹿らしゅうなってくる。平穏無事であればある程に、信心が有難う続けられるという様な信心を一つ身につけておかなければならんということである。
 普通の人の、まあ考え方、信心というものはね、確かにおかげを頂くどころではありませんけれどもです、そのおかげを頂くということが、おかげを頂くことだけが信心だと思うたら、誰だっておかげを頂いたら、油断を致します。それが人間のまあいわば弱点、ね。だから、おかげを頂くことが、信心でもあるけれどもです、それにもう一つ根本になるものね、いわゆる体が元なりと仰るところですね、心が元なり。
 又、次のおかげも頂かんなりませんから、いわば欲得でいうてもです、おかげを頂くという、欲得でいうても、それから先の信心が、私、身につけられて行くということが、大事なことだと。どうでしょうか皆さん、皆さんの信心の姿勢というものが、どういう事になっとるでしょうか、ね。もし今、自分がお金にも不自由しない、健康でもあるなら、ひょっとしたら自分の信心は、もうそれで留まって仕舞うかも知れないという様な思いが、皆さんの心の中にあるならね。
 貴方の信心は、いわば心作りの信心ということは、心作りだということをまあだ思い込んでいない証拠ですからね、これじゃあ、まだほんとのおかげは受けられんと、先ず思うていいです。けれども日々油断がでけん、今日もまたおかげを受けんならん事があるからというのが、例えば朝参りにかりたてられておるといった様な信心であるとするならです、折角のことですから。
 私は、自分の心の向きというものを本気で変えさせて貰うて、いわば心作り、心が段々自分で自分ながら磨かれて行く楽しみというか、有難うなっていく喜びといった様なものをです頂く為に、本気でそういう楽しみが出来るところまで一つ自分の心に本気で取り組ませて頂かなければいけないと思いますね。そこに限りがない、学者が年を取っても、本を読むようなものであろうぞい、と仰る様にね。
 信心の力を、受けて行こうとする人達がです、ね、やはり信心の修行を一時でも怠ることのない様な楽しゅう信心が出来る、最近申しております、いわゆる和賀心なんです。いわゆる「和賀心を目指す和らいだ心、賀こびの心」ところが和らがない、賀こびが湧かない。これはまだ信心が足らんぞ、これはまだ焦点の置き方が間違っておるぞという様に、その和賀心と云うものが焦点であればです、信心というものは、もう油断どんする段のことじゃ決してないことになって来るでしょうね。
 おかげが目指しではなくて、和賀心が目指し、ね。例えば、損得でいうてもです、和賀心になることに焦点を置いた信心でなからなければ楽しゅうない、いわば馬鹿らしいということになるのです。昨夜の御理解に、この和賀心についてのまあ新解釈といった様なことを頂いたんですけれども。ちょっと忘れたが?「永瀬さん、あなた、控えておられませんかね。昨日の和賀心、誰か控えてなかったのかね。
 ちょっとヒントだけでもいい」ね。昨日私そこんところ念を入れて、今迄と違うと言ってお話したんですけれども。(外部の声あり)「神様を信じてからの和の心」そうでした、はいそうでした。例えばあの今日さっき読ませて頂きましたような事、あるいは神様の間違いなさとか、神様の働きというものが、あの分かった所の一線上にお互いが出らなければ、あの御理解は分からないといった様な意味のことを申しました。
 あのう例えば、和の心でも、只、性格的におとなしいとか、非常に喜びが強いとかという人がやっぱありますよね。けれども、あの神様をね、神様を信じておるから、あのう和でおれれるという事。神様を信じているから、心が和らいでおれるということ。神様を信じておるから、喜びが湧く、という。只、性格的に喜びの強い人とか、感受性の強い人達がありますよね。非常にもの喜びをする人達があります。
 又、生まれつきにいうなら穏やかな生まれつきの人があります。それではない。神様を信ずるから、神様を信じておるから、そこに和が生まれて来る、賀が生まれて来るとね。例えば、そういうところに、あのう和賀心が高度なことになって参りますとですね、例えば、和賀心を焦点にして、和賀心が生まれない。まあだ神様を信ずる力が足りない証拠だという風にですね、なって来る訳です。
 ですから、この和の心という、和賀心という、申します、その和賀心がね、例えば、焦点であるということになる時に、もう益々信心の油断ども出来る段じゃない。信心をいよいよ進めて行かなければ、ね、神様を信ずる力は頂けない。信ずる力が頂けなければ、和の心も賀の心も薄らいだものになって来るのですから。信心を進めて行かなければいけないことになってくる、ね。
 一つ例えば「まめなとも信心の油断をすな」という前に「障子一重がままならぬ人の身ぞ」と。又はその次に「信心は本心の玉をみがくものぞや」というようなところ。ほんとに自分の無力さ加減、といった様なものが、いよいよ分かって来るなら、来るほどです、信心の油断なんか出来るだんのことではないし、又、信心は、いわゆる、本心の玉をみがくもの、いわゆる、心が元であるということが、分かれば分かるほど、信心の油断は出来なくなって来る、ね。
 只、まめなとも信心の油断をするのは、只御利益ということだけが目当てだから、御利益を頂くと、もう信心に油断が出来るというのですから。どうしてもそこに焦点をね、変えなければならんということになります。いうなら我とわが心が拝めれる程しの心が段々育っていくということをです、目当ての信心にならせて頂かねばならん。そこのところからね、「まめなとも 信心の油断をすな」と。
 昨日私最近私がもう秋永先生が言われるのに「よう辛抱強う親先生が、和賀心、和賀心ばっかり言いなさる」という話が出たんです。私も又私のこの頃のお話を後で聞かせて貰うて、もうかき口説くようにして、あの口説口説しゅう、和賀心和賀心と言うておることが、お話が頂きにくいといった様なことになってはいないだろうかという様な話をしましたら、秋永先生がほんとに時々それを思うことがありますと。よう辛抱強う和賀心ばっかり言われることじゃあるという風に思う、という様な事をですね。
 私は例えば三十分も話をしなくても、十五分位でよかとこだけはですね、いうならば、触りのところだけをこうお話をしたら、みんなも辛抱せんで済んだろうという風に思いましたらね。夕べ、その事を済んでからここへ出て参りまして、そのことを神様にお願いしましたら、「除虫菊がいっぱい咲いている」ところを頂きました、御心眼に。除虫菊というのは、虫を除くということですね。虫を除く菊ということ。
 菊ということは、まあここの信心ということでしょうね。ですからね、私が繰り返し繰り返し皆さんに例えばね、もう心から、それこそ浴びせる様にしてです和賀心和賀心と言うておることはね、除虫菊の働きをすることだから、いくらかき口説いてもかき口説く様に、もう又あの話かという様に、皆さんにかけておるということはね、これは除虫菊の役目をすることなんですよ。
 だから、皆さんもね、ああやって、あのうなんというですか、あのう仏教、子供の時、お観音様に婆ばが連れて参りました時に、何事かありよりました。こんな厚いあのうお経の本がありますよね、それを頭の上にバラバラバラバラ、何とか言うてからバラバラかけて下さるんですよね。それで病気が治る、おかげを頂くといった様にですね、例えば、そういう様な役目をするのですね。
 私が、こうやって一生懸命、同じ事を繰り返し繰り返し、皆さんに聞いて頂いておりますけれども、それはね、お互いの心の中におかげの受けられない元が、うじがついておる。育ちよる筈だけれども、もう十年も経つのに、二十年も経つのに育っていない、萎縮して仕舞っておる。それは、そこに虫がついておるから、育ちきらんでおるのですからね。その例えば、虫を駆除することの為に。
 こうやって御理解が、まんべんもなく繰り返し繰り返し頂いておるんだということだと頂きました。こりゃあやっぱりどうでもこうでも、もうこの位で止めてなんて言わずに、こりゃどうでも三十分なら、三十分さして貰わにゃいけんなということを夕べ改めて思うたんですけれどもね。今日の御理解の中からも、結局「まめなとも信心の油断をすな」とね。ですから。
 なら油断をせんで済むおかげを頂く為にはですね。私共が信心が楽しゅうなる様な信心をしとかにゃならん。楽しゅうなる様な信心とはです、ね。結局自分の心が元だ、ということを分からせて貰うての信心にならなければならん。ということだけを今日皆さんに聞いて貰えばよかった訳なんです、ね。これは皆さん初めて頂くでしょう、そういう意味合に於て。だから。
 そこのところだけを言やあよいけれども、又その心の元であるところの和賀心。と言うところへ持ってきてです、結局、和賀心が焦点でなからなければならないとして、私が、又十五分で済むところを、又改めて十五分繰り返し繰り返し、こうやって申しますということが、そういうおかげが頂けるものとして皆さんは、それをお払いでも受ける時の様な気持ちでですね。
 御理解を頂いて頂きたい。同時に又今日私が申します。ほんとに今私共の願いが成就しておかげを頂いたら、おそらく信心にすぐ油断をすることであろうという様な内容であるならば、改めてです、信心の焦点を変えて、楽しゅう信心が出来る様な方向へ向きを変えさして頂かなければいけんなということを一つ思うて、分かって頂かなければならないと思いますね。
   どうぞ。